Gallery & Essay

高齢者の方々の作品やエピソードです


Reikoさんのちぎり絵

繊細で大胆。季節の息吹を感じます。2019.4.27


下宿のおばちゃん

「なに言ってんのさ」と言いながらガハハと笑うYOUKOさんは昭和七年生まれ。
役所に勤める夫と三人の子供と姑の五人家族で海沿いの街で暮らしていた。
YOUKO さん30歳の時、下宿を始める。
多い時には七人の下宿人がいた。
YOUKO さんの朝は下宿人の靴磨きから始まる。
「勤め人の人たちだから、ほれ、足元もちゃんとしてないと」と、革靴をせっせと磨いた。
靴磨きが終わるとガラス拭き。家の前を通る勤め人たちは、綺麗に磨かれたガラスに自分の姿を映し身だしなみを整えたという。
下宿人、家族と近くに住む親戚親子と総勢十数名の朝食。
朝食が終わると下宿人にも弁当を持たせ送り出す。
一息つく間もなく、掃除、洗濯、夕飯の買い出しやらととにかく働いた。
YOUKOさんの家に下宿すると、部屋の掃除、洗濯も全てYOUKOさんがしてくれた。
もちろん食事も昼の弁当も靴磨きまでしてくれた。土曜日も日曜日も。
「おかずなんかもほれ、出来合いのものもあったけども全部自分で作ったさ」
下宿人は子供たちの面倒をよくみてくれた。
夫は下宿人らと酒を飲みながら麻雀卓を囲むこともあった。
賑やかで笑顔が絶えない家だった。

YOUKO さん三十三才の時、突然夫が逝った。
人望が厚く誰からも信頼されていた夫の死は街の隅々まで伝えられた。
YOUKO さんは涙を堪え働いた。
仕事を世話する人もいたが「慣れたことがいい」と下宿を続けた。
三人の子供たちを育てるため、下宿人たちを支えるため、YOUKO さんは働いた。

YOUKO さん五十五才の時、独り立ちしていた息子から「かあさん、札幌に来いや」と言われた。
それまで必死で生きてきた母を想う息子の一言。
YOUKO さんは迷いもしたが子に従うことにした。
「おばちゃんにいなくなられたら俺たちどうすんのさ…。でも、息子に札幌に来いって言われたんなら仕方ないな」
下宿人はそう言ってYOUKO さんを送り出してくれた。

ある時、かつての下宿人からYOUKO さんに連絡が来た。
「おばちゃん、うちに遊びに来てくれないか」
かつて若かった下宿人はいつしかいいおじさんになっていた。
「あの頃の何人かが近くに住んでいるから檀家まわりしていけばいいんだ」と、かつての下宿人たちの自宅を何軒か案内してくれた。
「いやいや、みんなによくしてもらったじゃ。ガハハ」

下宿人の面倒で忙しかった頃、ある日夫がこう言った。
「下宿人と俺とどっちが大事なんだべ」
「『何言ってんの、あんたに決まってるべさ』って言ってやったさ、ガハハ」
と、YOUKO さんは笑ってた。


(私が訪問し帰る際には「良かったよう、また待ってるよう」と必ず言ってくださいます。今日もガハハをありがとうございます。2019.2.7)

いつも前向きなMiwakoさん 90才を過ぎても筆を持つ

「ちゃんとする」ことをちゃんと教えてくださいました。ありがとうございます。2018.12.21


「シワシワの笑顔」


「おはようございます」
「おはよう、ずいぶん早いね、センセイ」
「おばあちゃんの顔を早く見たくてね」
「このシワシワかい」
「そう、そのシワシワの顔」
おばあちゃんはシワシワの顔をさらにシワシワにして笑う。

彼女は百年以上も生きてきた。
長生きをしていると「お元気ですね、おいくつですか?」と聞かれることが度々あった。
その度に「あんたとおんなじくらいだ」と微笑みながら応えていた。
品が良く洒落の効いたおばあちゃん。

道南の山間で暮らしていた子どもの頃、稗粟黍などを食べていた。
小学校にあがる直前、トクシュンベツから小樽へ家族みんなで歩いて大移動。
倶知安の街の明かりを見たとき「都会だ」と子ども心に思った。

小樽では、母親と共にニシンを運んだ。
小さな背中に大きなモッコを背負って、山の上の銀鱗荘へ。
途中の線路では長〜い貨物列車が通るのが嬉しかった。ゆっくり進む貨物列車を見ながらからだを休めた。

ゴム会社で働き始めた若い頃、友達とふたりで職場を抜け出し美空ひばりを観に行った。
その歌声に胸ときめかせて職場へ戻ると「なにやってんだべ!」と課長に叱られた。
またある日、「見てみれ!暑寒別におっきな凧上がってるべ!」と友達に声をかけ、「どれ?」と外へ出た友達をからかって笑いあった。
小樽から見える暑寒別岳に上がる大きな凧、どんなに大きかったのだろうか?
山ほど大きくなければ小樽からは見えないだろうに。

夫は郵便局で働いていた。
「北の誉はオレがつくってやったんだ」が口癖なくらい酒が好きだった。
「たまには子どもにせんべいの一枚でも買ってきてやればいいのに」と思うこともあったが、酒がせんべいに変わることはなかった。

ずいぶんと歳をとってからもゴム会社で働いていた。
「歩合制だったから気が楽だったよ。働いているのが楽しかった」と穏やかなシワシワ顔で話す。

90代も半ばを過ぎた頃から、一緒に散歩をしたり日向ぼっこをしたりすると「ありがたいね」としみじみ言ってくれた。
寒い日には「冷たいね」と手を温めてくれ、部屋を出るときには「気をつけてね」と一声かけてくれた。

百歳のお祝いに使者が来たときには涙して賞状をもらっていた。
賞状やお祝いの品々を見ながら「ありがたいね、ありがたいね」と繰り返していた。
「私の百歳の時には一緒にお祝いしてくださいね」とお願いすると、尚一層シワシワの笑顔になっていた。
もう少し先ではありますが、私が百歳になった時には一緒に祝ってくださいね。

(シワシワ顔のおばあちゃんと院長とのやりとりの一部です。おばあちゃん、強さと優しさをありがとうございます。2018.11.30)

92才のYaekoさんが60代の時に描いた砂絵や土絵です。

観ていると時を忘れます2018.10.19